金平玲さんとともにたたかう会・ニュース 第4号

金平玲さんとともにたたかう会・ニュース 第4号

「広島差別事件」再考
代表世話人 森島吉美 

 差別分断施策を本当の意味で越えることができない革共同

 ここで、今一度「差別ってなんだろう?」と考えてみる。
 「婦人民主クラブ全国協議会」、「部落解放同盟全国連合会西郡支部」が、「広島差別事件」に関して、いろいろいっているが、よく読んでみると(その発言の中味を吟味してみると)、結局、「広島差別事件」の一番大事な点(何が差別か?)には一言も触れてはいない。
 両者に共通しているのは、「広島差別事件」といわれているのは、単なる「路線対立」であって、意図して差別発言がなされたものではない、という点である。
 彼らは、この論理を、差別発言の正当化に使っている。
 僕自身のように、全国連とは離れたところにいたものとしては、全国連(被差別当事者)が、よくもこんな連中と行動をともにすることができたなあ(よくも今まで我慢してきたなあ)、というのが率直な感想である。
 「労働者自身が、差別・分断とのたたかいを労働者階級=全体の問題として、自己解放的にたたかうということが重要です」、「年金や生活資金を根こそぎ奪うという、『死ね』という攻撃は、・・西郡の供託者だけでなく、三百万部落大衆、労働者階級全体にかけられた攻撃だ」と、彼らがいうとき、そこには部落の人々の一人ひとり、労働者階級の一人ひとりの顔など見向きもされていない。
 彼らの運動に決定的に欠けているところは、労働者が、彼らを支配する権力者を前にして、苦もなく一致団結できるとあまりにも単純に信じ込んでいるところである。「なぜ一緒に闘えるのか?」、「どうすれは一緒に闘えるのか?」、この問を前にして、彼らは、何も考えず、「一緒にならない連中は権力者の回し者、ようするにおろかな連中である」と結論付けてしまう。
 これは、ブッシュやテロリストの「聖戦(絶対的な正義の闘い)」と何らかわりがない。

 差別問題から逃げる革共同

 「差別とは何か?」、「確認・糾弾会とは何か?」、彼らはこの問を前にして応える術を知らない。
 この問に真正面からぶつかっていくことが、本当の意味で、「ともに闘う仲間を見い出す」ことにつながる。差別分断されたお互いが、正面から向かい合って、その溝を埋めていくことである。この「労」を無駄だと決め付けているのが彼らの論理である。
 「不用意な、意図せざる発言だった」、というかわりに、「路線対立」の中での発言だ、と彼らが(革共同が)いうなら、ことはもっと重大である、ということに彼らは気づかないだろうか? つまり、そこでなされた発言は、「意図的」になされたということになるからだ。
 彼らが、権力者が「死ね」という攻撃をしてきたとき、「一致団結して闘わないでどうする」、というなら、差別発言一つが、被差別者をして、「死」に追いやることもあるという事実を前にして、それにどう対応するのか。差別発言による「死」など問題ではない、権力者の「死ね」という攻撃への対応の方が大事といってのけるのか、いや、事実、彼らは公然とそう言い放っているではないか。
 差別というものは、差別を受ける側がどういった運動団体(組織)に入っているのか、入っていないのか、そんなことを選んでなされるものではない。「自民党や本部派に呼びかける」という発言を彼らは鬼の首でも取ったかのように、全国連攻撃の武器に使う。しかし、これは、差別を前にして、分断されている被差別者が一緒になって、ともに闘う道を模索していこうという発言である。あくまで、差別が前提である。差別そのものにまともにかかわろうとしない彼らには、理解が及ぶはずもないことである。
 僕自身、同和会とも、本部派といわれている組織とも連携をとって運動を続けてきている。差別という一点で、6・1集会には、同和会の人も、本部派の人も応援に駆けつけてきたのはいうまでもないことである。
 彼ら、革共同にいいうることは唯一つ、「確認・糾弾会」を堂々と受け、差別問題に真正面からぶつかり、その上で、自らの主張ををしろ、と。