5・23石川一雄さん不当逮捕45ヵ年糾弾! 広島差別事件徹底糾弾! 5・25狭山行動

5・23石川一雄さん不当逮捕45ヵ年糾弾! 広島差別事件徹底糾弾! 5・25狭山行動



 私たちは革命的共産主義者同盟(革共同・中核派)とマルクス主義学生同盟(中核派全学連)の差別暴言と居直りを徹底糾弾します。

部落解放同盟全国連合会狭山支部
さやま市民の会
5.25狭山行動実行委員会



 広島差別事件とは・・昨年の夏に行われた全学連の合宿において、部落解放同盟全国連合会(全国連)広島支部に所属する学生のAさんが、その討論の中で部落解放運動のあり方について質問したところ、マルクス主義学生同盟(マル学同=中核派全学連)の学生たちが「あなたは戦線主義だ」「全国連のことしか考えていない」「全国連は物取り主義だ」「家賃値上げ反対闘争がそう(物取り主義)だ」「労働者と連帯してたたかっていない」「部落解放は部落民が地域でたたかえばいいんだ」「援助するようなものではない」などと聞くに耐えない差別暴言をよってたかって投げつけた事件です。また、別の会議では 「(全国連の)中田書記長は、リーダーとしてふさわしくない」とも言われました。

 本人は、信頼していた学生の仲間からこのような差別暴言をうけたことにすさまじいショックを受け、精神的にもおいつめられながら、でもぎりぎりのところで思い切って全国連中央本部に話し、同時に広島支部からは差別事件として中央本部に報告がなされ事件としてあきらかになったのです。

 以来、革共同に対してはこれまで、それこそ何度も申し入れをし、事実確認をするよう提案を繰り返してきましたが、彼らはことごとくこれを拒否して、各地で「差別事件ではない」というキャンペーンや集会を、当事者不在でくりかえしおこなっているという現状です。そればかりか狭山現地においては全国連の青年の職場にも押しかけ「差別ではない」「糾弾はゆるせない」といって職場破壊と面会強要をしてきました。青年はそれを毅然とはねかえしましたが、断じて見過ごすことはできません。これ自身がもうひとつの許しがたい差別襲撃そのものです。

 そもそも私たちは、今生きている時代が帝国主義の階級支配のもとにあるかぎり、その支配の重要な一環として部落差別は存在するし、また人々は、労働者階級はそういう支配的な思想の中で同時に間違い=部落差別もすると考えています。そのような意味で部落の完全解放というものはいわゆる帝国主義の打倒をめざすものと考えています。階級闘争の言葉でいうところの「階級の廃絶」のなかに私たちのいう「よき日」はあるということです。

 差別糾弾とは、その過ちを正しく見据え、糾して(正して)いくことだと思っています。差別糾弾闘争はそういうものとして、帝国主義の階級支配=差別分断支配を打ち破り、新たな共闘関係、より強固な階級的団結をつくっていくものだとおもっています。しかし残念ながら、もはや今日の革共同は最悪の差別襲撃の集団となったといわざるをえません。

 革共同の中央政治局と広島地方委員会、そしてマル学同・中核派は、ある問題は学生一人のせいにし、またある問題はひらきなおりました。そして「糾弾は人格を否定するものだ」と、糾弾を拒否し、討論を打ち切り、いまだに論議を拒否しています。それどころか、彼らの機関紙である「前進」紙上で、毎号のように、いまだかって右翼の新聞やマスコミの差別キャンペーンでも聞いたことのないような、差別的居直りや、読者に対する差別煽動を繰り返しおこなっています。

 2月24日に大阪で行われた「広島差別事件真相報告集会」に対しては、あたかもこれを襲撃するかのように目と鼻の先の会場に、別の集会を全国動員でぶつけて、私たちの集会の破壊をもくろみました。そしていま6月1日に現地広島で真相報告集会がもたれようとしています。これに対しても広島でまた同じ日に、しかもこの間「前進」などで差別文章を発表し、狭山闘争や、石川さんをはじめ部落民のたたかいを侮辱しはずかしめてきた、悪質な差別煽動をおこなってきた人物を報告者として迎えた集会を全国動員でぶつけ、私たちの真相報告集会を破壊しようとしています。革共同は、いったいどこまで差別者として純化をとげて、また腐っていくのでしょうか。

 5月23日、石川さん不当逮捕45ヵ年目のその日、革共同は部落解放東日本共闘会議を僭称して集会と要請行動をやりました。これに先立って、彼らは「前進」紙上で、「『部落の解放なくして労働者の解放なし』というのはまちがいだ。」と断言しました。部落解放はまちがいだ。部落解放運動はやらないと言い切ったのです。部落差別を居直った差別者集団が5・23のこの日に、解放運動に対しての分裂集会、分裂行動をやるということは、狭山闘争や部落解放運動に対しての差別襲撃そのものではないですか。断じて許せないことです。

 彼らは糾弾を人格を否定するものだといまだに主張しています。それでは「人格を否定」という場合、差別された部落民の人格はいったいどうなのでしょうか。革共同は「部落民には人格はない」といっているのです。

 部落差別は部落民の人格を否定し、部落民の命まで奪うものです。そのいわば殺されようとした部落民が、自らの命をかけて訴えるものが糾弾なのです。「糾弾するな」ということは部落民に「死ね」ということです。この言葉でいったい何人の部落民が部落青年が殺されてきたでしょうか。1970年、糾弾を否定され、絶望に追いやられ、服毒自殺でかえらぬ人となった弓場美恵さんのことを、また、わたしたち部落民一人ひとりの歴史の中にある、つらい胸がはりさけそうな記憶を、わたしたちは決して忘れることができません。「生きたまま心臓を引き裂かれる」これが部落差別なのです。「糾弾」は部落民にとってまさに「命」そのものなのです。

 また、わたしたちは、差別発言(事件)そのものも重要ではあるけれども、その後の差別した側の人間性=階級性をいっそう重視するのです。いま革共同は「原発言がない」「原表現がない」という解放運動の歴史の中でいまだかって聞いたことのない、珍妙な前代未聞の奇論をもちだし、「だから部落差別ではない」といっています。そして「差別か差別でないかは革共同がきめる」とまでいっています。

 差別を真正面から見据え、糾弾を自己の全存在をかけて受け止め、また部落差別についての正しい歴史と認識を共有し、ともに解放運動をたたかうこと、そして差別を許さない人間として立つこと、また差別のない世界をつくる主体として自己を形成していくたたかいに決起すること、これをわたしたちは求めているのです。

 革共同は、これを拒否し、「差別かどうかは自分たち(革共同)が決めること」といいきりました。そして命がけで糾弾した部落民を踏みにじり、「糾弾主義ナンセンス。絶対ゆるさん。」といいのけたのです。これこそが部落差別です。いまや革共同の存在そのものが部落差別であり、差別襲撃そのものです。わたしたちはこれを絶対に許すことはできません。

 「差別かどうかは自分たちが決める」「糾弾は人格を否定する」「解放運動は物取り主義」この暴言を、私たちはじつは10数年前にすでに聞いています。それは、政府・法務省のいわゆる「法務省見解」のなかにあることばです。それ以来、解放運動つぶしの決定的文言として使われ、一貫して解放運動と解放運動団体への攻撃のために、その差別襲撃の武器として、それを象徴する言葉として使われてきたものです。

 そのように考えると、いま革共同は、彼らの自称する「革命的共産主義者」の「同盟」であることを打ち捨て、政府=法務省の立場にたどりついた、といっても過言ではありません。1月に開催した全国連の拡大中央委員会での糾弾闘争本部長の発言を意図的にねじまげ、「(全国連は)自民党や解同と共闘する」といって悪罵を投げてきていますが、革共同こそ、日本政府=帝国主義と同じ立場にたちきったのです。昔風にいえば、いわば「バリケードの向こう側」にいったということを内外に宣言したということです。私たちは本当に悔しくて、残念でなりません。

 革共同の部落差別襲撃、差別者集団への転落と居直りを許さず、6月1日広島の地で開催される「真相報告集会」に集まり、また遠方でいけない人は心を広島の空に飛ばし、ともに徹底した糾弾闘争をやりぬき、新たな団結をつくりましょう。「よき日」のために。

2008年5月25日